Joyce Carol Oates 'Sinners in the Hands of an Angry God'

何かを恐れる人と恐れない人は本当の意味で分かり合えるのか

Sinners in the Hands of an Angry God

舞台はNYから160kmほど離れたところにある街・Hazelton-on-Hudson(作者インタビューによると過去作でも用いている架空の街だそう)。異常気象が続く中、60歳手前の老婦人・Luceにはいつの頃からか、変な匂いがするとすぐに医療用の緑のマスクを付ける習慣ができる。それを夫のAndrewは「過剰反応だ」とか「破滅が近いと大騒ぎしている」と言って喜ばない。夫婦の周りの同世代の友人たちはみな、ガンなどの深刻な病を患っているかすでに死んでいるか、という状況。これをLuceは、地球温暖化に対する「神の罰」だと思う。そんな中、Andrewが久しぶりに友人たちを招いてホームパーティを開こうと言い出す。Luceは、以前友人たちと組んでいたヴァイオリンのカルテットを再結成し、パーティの場でシューベルトの『死と乙女』を披露しようと練習を始める。


地球温暖化と異様な気候変動を恐れるLuceの心境というのは、20世紀に大量に書かれた核戦争小説のキャラクターのそれに近いように思う。罪を背負った人類、最終戦争、世界の終わり。そもそも西洋文明の根幹にあるキリスト教が、少なくともその原始時代には終末論的世界観をベースにして成立しているから、「終末もの」には一定の感覚的な支持と需要があるのだと思う。21世紀のカタストロフィとは核戦争ではなく、地球温暖化であるというのは時代を読む感覚に優れた作家が持つ切り口だろう。
もちろん20世紀のパラノイアックな小説群とオーツのこの短編は同列には語れない。一番の違いは、Luceの怯えぶりと奇妙な確信ぶりというのは、むしろパラノイアックな小説を綴る筆そのものに見られたような態度で、一方この短編はLuceをあくまで三人称で描き、その心理と行動をつぶさに、時に冷徹に観察しながら進んでいくというところにある。トランペットを吹き、世界の終わりを告げてまわるような間抜けな真似をオーツはしない―実際に地球温暖化が人類の「罪」であるかどうかには判断をくださない。Luceの恐怖心は、筋が通っている部分も、通っていない部分もある。そのことが、彼女と夫の、長年連れ添っているにも関わらずどこか緊張感が漂う関係をある意味で形作っているとも言える。もちろん、この夫婦間の(決してどちらも口にはしない)齟齬を生んでいるのは、気候変動をめぐる態度の違いだけではなく、他にたとえばセックスレスだとか、夫が一人で過ごす時間が長すぎるだとか様々な要素が絡み合っているわけなのだが、それでもLuceの怯えが大きくそこに作用しているのは疑いがない。たとえばこれを、原発をめぐる夫婦間の意見の相違と読み替えてみてもエッセンスは損なわれないだろう。問題なのは、それが本当に恐れるべきものかどうか、ということではなく、何かを極度に恐れる人と大して恐れない人は本当の意味で分かり合えるのか?ということなのだと思う。この人間の本能的な心の動きを観察する物語は、夫婦のあいだのまなざしという養分を得て、メロドラマへと突き進んでいくことになる。

中盤以降は老いた男女のアマチュア音楽活動の歩みが綴られるけれど、Luceの目は常にAndrewを探している。彼が発表の場にいるか、聴いているか、感銘を受けているか。カルテットのメンバーとの間にちらつくフラート。振り絞るかのように熱く演奏されるシューベルト、響き渡る雷鳴。物語はこれでもかというくらいドラマチックに描かれていくが、彼女の心の動きを細部にわたって書き留め続ける筆はあくまでも冷静さを崩さない。どこまでも客観性を突き詰めていけば、その先には対象のグロテスクさが待っている。オーツは分かってやっている。この作品について言えば、冷徹な客観性がもたらすのはLuceたちの感傷的で、しかし切実なメロドラマだ。それはグロテスクだが、愛すべき人間くささも同時に備えている。
何かを恐れる人と恐れない人は本当の意味で分かり合えるのか? とりあえずの答えを出している最後の1行は、こうした試みの結果生み出された一種異様なテキストとなっていて、ちょっと忘れられそうにない。