Tessa Hadley 'Funny Little Snake'

その先のシスターフッドへ

The O. Henry Prize Stories 100th Anniversary Edition (2019) (The O. Henry Prize Collection)

O.ヘンリー賞は今年で創設100周年だそうです。巻頭には賞のこれまでの歴史が記されていて興味深い。
この賞の対象となるのはアメリカ・カナダの定期刊行物に掲載された英語のstories。もともとは読者からなるいくつかの委員会が、対象のstoriesを徐々に絞り込んでいき、17本にまでなった段階で最終審査員が1〜3位を選ぶ、というものだった。今では、series editorが20本をまず決め、3人の(自身も作家である)審査員がそれぞれのfavoriteの1本を選ぶ、ということになっている。 favoriteの選考過程では作者は匿名にされるので、今のプロセスになってから16年間で、審査員によって作者が特定されたのは2本しかない、とのこと。
O.ヘンリーの時代から”stories”の形は大きく変わったという。一人称でも二人称でも三人称でもよいし、全編会話でも会話なしでもよいし、1パラグラフで構成されていても、脚本形式でもよい。今やstoriesは開かれた分野となったけれど、いくつかの要素は変わっていない―「物語の中の異なるピースの間に存在する関係性と、始まりと終わりを何がしかの形でつなげようという情熱的な欲求」。


このFunny Little Snakeは受賞作集の巻頭に置かれており、審査員の1人Lala Vapnyarがfavoriteに選んだ作品。読んでみればそれも納得の、読者を強く惹き込む力を持った1本だと感じる。やや老いた印象を受けるが乱れず明晰な文体。

歴史学の教授の新妻である主人公のValerieは、夫と前妻との間にできた娘のRobynを定期的に預かっている。Valerieはちゃんとした待遇を提供しようと気を張るが、Robynとのコミュニケーションはほとんど成立しない。ある日夫が、仕事があるからと、前妻のもとにRobynを送っていく役目をValerieに押しつけてくる。

THE CHILD WAS NINE YEARS OLD and couldn’t fasten her own buttons.

これがこの短編の最初の1文であり、Robynは「人形のように生気がない」こどもとして描写されていく。

Valerie had encouraged her into a bath foamed up with bubbles, she still smelled of something furtive—musty spice from the back of a cupboard. […] Robyn was miniature, a doll—with a plain, pale, wide face, her temples blue-naked where her hair was strained back, her wide-open gray eyes affronted and evasive and set too far apart.

Robynはほぼコミュニケーションのとれない、不気味な存在だけれど―もしくはそういう存在であるが故に―、彼女から何か危機がもたらされるような気配はなく、Valerieにとっては”無害”であることもまた確かなので、「そういうこども」としていつのまにか存在感は後退していき、むしろ僕の意識は、中盤までは夫との緊張感あるコミュニケーションのほうに向けられていた。この夫の描写がまたうまい―上流階級に位置しながら他人を見下しがちで、とりわけ女性差別の気が濃厚。コミュニケーションの不在よりは、何かを強いられるコミュニケーションのほうが有害に感じられやすい。
しかし、「そういうこども」でしかなかったRobynは、Valerieが前妻の家に彼女を届けるにいたって、鮮やかにリフレーミングされていく。この印象の変化が、物語の一つの動力であり、Vapnyrは、リフレーミングの過程がある種の罪悪感と責任感を読者にもたらし、その結果、読者は物語そのものに否応なしに巻き込まれていく―と巻末に書いている。なるほど確かに確かに、という感じなのだが、後半〜終盤にかけて、僕としては他の部分がむしろ目についた。
Vapnyarの解釈では、Robynがリフレーミングされる先は「ネグレクトされているこども」ということになる。彼女はどう転んでも愛情豊かに育てられている子ではない。前妻の家の様子でそれはすぐにわかる。だからRobynを「ネグレクトされているこども」としてValerieがとらえるのも、読者が受け止めるのも当然だし、僕ももちろんそういう印象を持った。Robynをこのようにリフレーミングしたとき、「母と子」が物語として浮かび上がってもくる。motherhood―前妻がValerieに投げつける言葉だが、その言葉は少なくともValerieと同じくいらには前妻自身を傷つけているように見える。母親であるというよりはむしろこどものような前妻と、本当には何もわかっていない非当事者のValerieは、実は頼りのならなさという点ではあまり変わらない。RobynがValerieにすがる理由は不確かなものでしかない。暗雲がたちこめたまま去らないような、一種寒々しいエンディングの印象はここから来る。
と、こうまとめたときに、もうちょっとだけ言い尽くされていないことがある、とも思う。

無責任な夫がValerieにRobynを送っていくように頼んだとき(「駅からcabにでも乗せてやればいい」)、夫がRobynの実際を何も知らないことに呆れつつ、Valerieは前妻のことを考える。Valerieは彼女を恐れているが、同時に好奇心も抱いている。夫から悪口しか聞かされない彼女は実際にはどんな人物なのか。この時点で僕の中にふんわりと立ち上った期待感は、Robynとの絆についてのものじゃなく、夫を介して生れるかもしれない前妻との間のシスターフッドについてのものだった。「悪女」の前妻と、手を結んで夫に立ち向かう新妻。こうなると面白いな、と。常に見られる立場、弱い立場でいることを素知らぬ顔をして受け入れ生きようとするValerieはどこかで(無意識に?)本当の紐帯を求めていて-この時点では前妻にそれを(やはり無意識に?)期待したんじゃないだろうか。
でもその期待はあっさりと裏切られる。前妻は手を握り合えるような人間ではなかった。Robynを送り届けた後、Valerieが向かうのは自身の実家。彼女は「こども」として読者の前にはっきりと現れる。その後、特に明確な理由もなく前妻の家に舞い戻ったValerieが、窓の向こうのRobynに見たものは? 「ネグレクトされているこども」だけではなく、自分自身の姿をも見たのではなかっただろうか。
人形を持ってき損ねて落ち込むRobynを慰めようとしてうまくいかないValerieの姿は、Robynと同じくらいの少女に見えなくもない。リフレーミングされるのはRobynだけではなく、主人公Valerieもまた、隠れていたアンハッピーな貌をのぞかせる。あたかも母のように強くあることを選んだのではなく、手を伸ばした先がたまたまこの子であったということ、そしてそれでもその手を離さないことを主人公が選んだということ。この短編はやはりシスターフッドを描いているのではないかと思うのだ。