tudurikata

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Bret Easton Ellis 'American Psycho'

2020-12-29

小説版

2020年のまだ寒くない時期は朝に読書の時間をある程度とることができ、ちまちま読んでいたがこれは素晴らしい作品だった。
舞台はまだドナルド・トランプが「不動産王」として羨望と崇拝の対象だった頃のNY。冒頭から、ファッション、CDプレイヤーやビデオデッキ、美容グッズ、エステ、日焼けサロン、人気で予約のとれないレストラン、会員制ジムなど、身を飾り立てるアイテムや場所、ステータス・シンボルについて、ひたすら主人公Batemanは独りごち続ける。
序盤を少し過ぎたあたりから、Batemanの「日常」の一部である殺人の描写が次第に増え、直接的なグロテスクさ(と、あらゆる意味での境界侵犯)を加速させていく。この連続殺人に代表されるBatemanのサイコパシーは作品のメインテーマのように読めるし、実際中盤以降は殺人の詳細なスケッチが大部を占めてはいるのだが、読みきった人ならわかるように、殺人と非共感性はこの作品の一部に過ぎない。というよりむしろ、殺人もグロテスク描写も、どちらかといえばBatemanにとり「身を飾るもの」なのであり、ファッションや最先端テクノロジー家電の列挙の延長線上に並べられるものと考えたほうがよい。実際彼は、被害者の体の一部を飾り、保存しているのだから。
これらの行いを全体として批判的に解釈するのは容易いし、ひるがえって我々はどうかと論じることも多分できる。あるいは作中Batemanが手を染める殺人(多くはほとんど衝動的であり、同時にミソジニックでもある)を切り取って「悪」と糾弾することも、一応読者は許されている。
しかしそれでも大きな疑問は残る。それは、終わりなく語り続け、並べ続けるBateman/Ellisに対する「なぜここまで?」である。このクエスチョンへの返答として、Ellisは正当にも、何も書かない。ただ並べていく。並べていったものが次第に崩れ、溢れ、倒れていき、それでも並べていく。そしてもしかしたら、その中心には、何もない。だから読後に残るのは、嫌悪感や後味の悪さではない(中盤、グロテスク描写が極まるあたりはともかくとして)。むしろ、並べ続けなければならない彼の生、そして並べても並べても埋まらない、中心のvoidに何を感じるか、ということなのだ。あえて言葉でまとめれば、「おもしろうてやがてかなしき」とでも呼ぶべき感覚が、個人的には一番近いように思われる。
さびしい小説だ。こんなに言葉を尽くして、何もないのだった。

映画版

クリスチャン・ベールの怪演にファンも多いであろう映画版は2000年製作だが、装いや小道具などはあくまで原作に忠実に、80年代後半を再現している。大筋はだいたい原作通りと言っていい。今だったらこの原作に対して、ピーキーな才能を揃えて怪作を撮ろう、といった気運になる可能性もあるが、この映画版はその意味では控えめというか、何を求められているのか/何が可能か、についてきわめて自覚的だった。つまり、too muchから生まれる笑い、そして冷えた虚無感。これをどう描写するか、という点に集中している。
徹底的に原作に忠実であろうとするならば、きっとトータルの時間は2時間ではおさまらず、アンゲロプロス作品並のボリュームが必要であっただろう。しかしそれは興行的にはまったく現実的ではないので、代わりにこの映画版は個々のエピソードのtoo much感をなるべく濃くし、印象を深く残すことに専念しているのだと思う。
ビジネスカードのシーンや、私立探偵との会話のくだりなど、原作では際立った存在感があるわけでもない挿話が映画ではクローズアップされていることからもそれは明らかだし、秘書(クロエ・セヴィニー)がBatemanの手帳の中を覗き見てしまうシーンについても、あえて原作に存在しないエピソードを入れる賭けには十分勝っている。興行作品として可能な範囲でいかに忠実に原作を映像にしていくか、という古く難しい問題に、うまくアタックできている。
ただし映像化に伴う一種の原理的な難しさがあったことも否定できない。一番それが感じられたのは朝のルーティーンを切り取った冒頭部分で、自分の部屋でBatemanが儀式めいた行為を重ねていくこのくだりは名シーンと言ってよいと思うが、それでも、そこで自らの心理状態を呟くBatemanを観て「一体彼は誰に話しているのか」と思わずにはいられないのだった。モノローグは独り言でなければならないし、対象がいないからこその原作の膨大な独りごちだったわけなのだが、それがナレーションと化した瞬間、Batemanが自分以外の他者を意識していることになり、受ける印象は180°変わってきてしまう。一応の解決策としては心中のつぶやきをナレーションとして乗せるのではなく、口に出して独り言として処理させる、という方法が考えられると思うが、冒頭に入れるシーンとしては逆に過剰かもしれない。ここはナレーションはなくてよかったように思う。
もちろん、映像でこそのきらめきもいくつもあった。エンディングの処理はその最たるものだが、終盤のPaul Allen宅が変わり果ててしまった後のシーンも緊張感があってよかった。人格/キャラクターときわめて近い地点に各人の「家」があり、その家の「変貌」、あるいは裏切りがBatemanにとり決して軽くない意味を持っていたということが、これを見るとよくわかる。